1.小池流の沿革 |
小池流は紀州藩(和歌山県)で小池家が代々指南し、伝統を受け継いできた流儀です。 紀州藩の初代藩主、徳川頼宣が元和5年(1619)駿河(静岡県)より移封され、そのときに従った御船奉行、竹本丹後配下の小池久兵衛成行を当流の流祖としています。 |
紀州藩では駿河より頼宣(南龍公)に従って御供した家柄を「駿河越」と言い、紀州御入国後に南龍公に召し抱えられた家柄を「南龍院様御代召出されし家柄」と言い、さらに2世光貞以降新進の家柄を「新家」と称し区別していました。 従って、小池家は竹本丹後配下であっても「駿河越」の家柄であるから、南紀徳川史によれば『駿河越及び龍祖御代召出されし家筋は子孫容易に断滅せしめたまわざるの御家法にして、特殊の恩典を蒙むる事、禄制永世御法に記載の如し』と言うように、家格は高かったものと思われます。 |
紀州藩では武術の指導者の家系を師範家(師家)と称していました。従って小池家は水芸の師範家であり、流祖小池久兵衛より連綿として幕末に至り、9代長之助まで続きました。 他の紀州藩水芸師範家は能島流が名井家から多田家に、岩倉流が岩倉家から川上家へと移り替わっています。前述の「駿河越」の家柄故に小池家は養子を迎えながらも、世襲を貫いたのです。 |
小池家伝承の資料「野嶋流水芸稽古場諸取扱控」(1857年記述)によると、紀州藩には水芸師範家が4家あり、その筆頭が小池家でした。 当時の師範家とは川上傳五右衛門(岩倉流)、多田善左衛門(能島流)、川口弁左衛門(御船手)、そして小池水右衛門です。 例えば年寄衆が水芸を見分したいといった旨の通達には、小池水右衛門に対し『近々水芸、年寄衆ご見分仰せ付けられ有りし筈に付、前もって拙者共見分致すべく思うので、川上傳五より多田善左衛門へも』申し合わせよと有り、小池家が紀州藩水芸師範家の代表格であったことが判ります。 4代小池三郎房長は明和3年(1766)9月より殿様の水泳のお供「御水方御用」をしてきたが、その水練の技術が優秀であったことから「水右衛門」の称号を紀州8世藩主重倫公より賜り、以後幕末の7代敬信まで代々この名跡を襲名してきました。 当時若干26歳くらいであった房長は異例と思われるほどの出世をしています。 |
即ち、小池家の系譜によると、宝暦5年(1755)7月に親の跡目5石2人扶持(御水主)を相続し、同13年(1763)には御船奉行附人(6石)になっています。さらに 明和6年(1769)に御船頭(8石2人扶持) 同7年(1770)御水主小頭並 安永4年(1775)大船頭格(12石3人扶持) 同9年(1780)小十人格(15石) 天明7年(1787)独礼(20石) となっていったのです。 親の跡目5石2人扶持を相続してから30年程の間に20石の独礼小普請になっています。 |
4代水右衛門房長の水泳指導は、小池家の系譜によれば明和7年(1770)『夏のうちは御船手の者へ水芸指南するよう』仰せ付けられているのが最も古い記録です。ただし、この時は『勤めの方は今までの通り』となっているので、御水主小頭並で殿様の「お水方御用」も行ったようです。 このように連綿として幕末まで続いた小池家であったが、廃藩置県とともに大きな変化がありました。維新後の稽古場は「和歌山県小池水泳場」と言っていたようで、出身者の武部俊雄の語るところでは『明治36年が小池水泳場の最後であった。37年には多田水泳場と合併され、大日本武徳会和歌山県支部水泳術練習場になった。川上水泳場は暫時そのままであったと記憶する。水泳場の位置は和歌山郊外の北島にあり、川上水泳場はそのまた上流の所で、南海鉄道の鉄橋よりは下流であった』とあります。 |
この武部俊雄の受けた証書の写しによると、明治36年(1903)8月13日には『游泳術修業候事 和歌山県小池水泳場』と言う証書が渡されています。しかし、翌年9月11日には『大日本武徳会和歌山県支部水泳術練習場抜手の技術を習得せしことを証す 大日本武徳会和歌山県支部』となっています。つまり、明治36年(1903)を最後として「小池水泳場」は廃止されました。 同様にこの年まで紀ノ川にあった多田水泳場(現能島流)も統合されて、岩倉流(川上伝之亟)だけが和歌山に残ったのです。 |
一方明治40年頃には、大阪の堂島川に水泳の道場ができていました。上流から順に小池流の本間水練学校(難波橋下流)、日本体育会大阪支会北支部游泳場(大江橋上流)、岩倉流の浅井水練学校(渡辺橋下流)があった様です。 大阪で明治維新以後最初に水練学校を開いたのは浅井水練学校の浅井清五郎であり、明治22年(1889)8月のことでした。 「游泳雑誌」(浪花游泳同士会編・明治42年8月)によると、本間水練学校は和歌山で7代敬信の時代に小池流を習った本間秀二郎(秀次郎)が明治25年(1892)に創設したもので、明治42年(1909)当時68歳というから、天保13年(1842)生まれということになります。 日本体育会大阪支会北支部游泳場は明治33年(1899)に当時大阪府会議員の井上喜平治が開設。 その息子の康治、富造、繁の3兄弟は最初本間水練学校で小池流を習い、この北支部游泳場でも指導をしました。本間秀二郎の没年は定かでないですが、本間水練学校の経営は井上兄弟によって引き継がれ、前述の浪花游泳同志会会員により指導されました。 長兄井上康治は政治的な計画、経営の才覚に優れており、当時大阪毎日新聞社が挙行した10マイル競泳の計画に参画、浜寺・打出に水練場や海水浴場を開設したのも康治の企画によると言います。 |
文久3年(1863)に7代小池純之助が藩庁に提出した「由緒書」によると、小池家自身は代々伝わっている流儀を野嶋小太郎藤原秀時より伝授されたとして「野嶋流」と名乗っていました。そのため、阪神地方では小池家伝統の泳ぎについて野嶋流の流名が一般に用いられてきました。 他方、4代小池水右衛門房長の弟子、加藤新五右衛門良房(中島源蔵令弼)は天明6年(1786)三重県度会郡玉城町田丸城下の外城田川及び宮川で、藩主久野輝純の命により「小池流」と称して水泳の指導を始めました。 これが「小池流」の流名の発祥です。 |
加藤良房は和歌山出身で田丸の久能家の家老職、加藤為次の婿養子となり天明5年(1785)3月に田丸に移りました。田丸に移った翌年に水泳の指導を始めているのは、相当の泳ぎ手であった事と思われます。 外城田川の水練場は勝田橋下の井堰のすぐ下流、通称「捨て湯」と呼ばれた長さ30m・幅16m・深さ2m程のところで行われ、初心者には捨て湯から30mほど下の浅い石畳の場所が使われていました。この井堰は善兵衛川に水を引くためのもので、安永6年(1777)に工事が完成しています。 |
明治24年(1891)に伊勢の二見浦で大正天皇(当時、明宮嘉仁親王)の御前で泳いだ時に提出した書類の写しによれば、加藤良房、金森仲長興(得水)、二俣太郎右衛門照親、吉村権右衛門、森猶左衛門朝由が代々師範したとなっています。 このように藩士の子弟に藩の武芸として指導されていたので、田丸水練場は明治維新とともに一時途絶えてしまいました。 明治8年(1875)加藤良房の孫成次(元田丸藩士文武諸芸取締)や曾孫竹雄が芦沢八二郎を教授に迎え、私設の田丸水練場を外城田川で再興し、一般の子弟を教えました。(一説に明治9年ともいう) その後も芦沢八二郎・金森仲(得水の孫)が教師を勤め、取締加藤成次、幹事小林記三・曽原甚吉らで引き続き開設されました。 明治20年(1887)からは女子も加わり、田丸に生まれ育った者は武士でなくとも男女を問わず、ほとんどの者が泳げるようになっていったということです。 |
村山竜平(大阪朝日新聞の創始者)により、生家の西に県下では始めての50mプールが昭和12年(1937)に新設され、この村山プールで田丸水練場の名は継続されました。 良房の曾孫加藤竹雄は名古屋へ出て明治34年(1901)8月1日「名古屋水泳協会」を起こし、小池流を指導していたが、それまでの教授科目を新編成して大正8年(1919)「小池流外城田派」を創始しました。 竹雄の子加藤石雄(いわお)は父の跡を継ぎ「泅道」(しゅうどう)という造語をもって、武道としての泳ぎを深く研究しました。 加藤石雄は昭和6年(1931)に9代小池長之助より後を託され、和歌山、田丸の系統が統一されて「小池流」の名称が正式に用いられるようになりました。 |
従って、現在の小池流には、外城田派時代のものが多く伝わっています。 泳ぎ方の種目名にも石雄独自の工夫が見られ、例えば和歌山では「抜手」と言ったが現在の小池流では「抜臂」(ぬきで)と言っています。関東でも「抜き手」の事を「ヌキデ」と呼ぶと言うことを聞いたことがありますが、少なくとも現在の小池流では「抜手」よりも「抜臂」の方が泳ぎの内容を的確に表しています。 |